院長紹介Docter

自己紹介

下田 哲也下田 哲也

院長 下田 哲也Shimoda Orthodontic Clinic D.D.S

血液型
A型
趣味
乗り物なんでも(特に自動車)、自動車レース観賞、食べ歩き、映画鑑賞、旅行(トレッキングなどあまり日本人が行かないような場所)

院長からひとことしもだ矯正歯科クリニックの院長をしております下田哲也と申します。私がどのような人生の軌跡を歩んで現在に至ったか自己紹介させて頂きます。

略歴

1990年3月 福岡歯科大学卒業
1990年4月 同大学矯正学講座にて歯科矯正学を専攻
1992年4月 福岡歯科大学 大学院入学
1995年11月 日本矯正歯科学会 認定医取得
1996年3月 福岡歯科大学 大学院 卒業(歯学博士)
「再植歯の整復・固定後の修復過程および歯の移動に対するb-FGFの影響に関する病理組織学的研究」
1998年3月 福岡歯科大学 矯正学講座を退局
1998年8月 福岡市にて「しもだ矯正歯科クリニック」を開院
2004年6月 ヨーロッパ舌側矯正歯科学会(認定医)
2006年3月 世界舌側矯正歯科学会(認定医)
2008年1月 日本矯正歯科学会(臨床指導医(旧専門医))
2010年11月 日本舌側矯正歯科学会(認定医)
2011年4月 世界舌側矯正歯科学会(専門医)

生い立ち

1964年 熊本県にて生まれる。
実家は産婦人科医院で男3人兄弟の末っ子(長男は外科医、次男は口腔外科医、三男は私)。小中学校は地元の隈庄小学校、下益城城南中学校に通う。

小・中・高はソフトテニスに熱中

中学校では幼なじみで親友のY君と軟式テニス(ソフトテニス)部に入部。身長が小さかったこともあり後衛でした。高校は熊本市内にある九州学院高等学校に入学。ここでも軟式テニスに入部した。また寮生活を経験したことにより甘えた考えが吹っ飛んで行った時期でもある。熊本はファッションに敏感でみんなおしゃれでした。よくセレクトショップでお気に入りのスニーカー、チノパンなどをウィンドーショッピングしていました。

歯科大学時代

ラグビーから「チームプレー」を学ぶ

福岡歯科大学に進学しラグビー部に入部(兄が入部していたこととラグビーの精神に共感を持ったため)。ラグビーを経験した事によってさまざまな事を学びました。ラグビーはチームプレーのお手本のようなスポーツです。現在矯正治療を専門に行う歯科医院として受付、歯科衛生士、技工士、歯科医師を含め15名程のチームになるわけですからまさにラグビーで得たONE FOR ALL、ALL FOR ONE(一人はみんなのために、みんなは一人のために)という精神で一致団結して治療に取り組んでいます。またラグビーにおいて同級生の結束力も築けました。8名近くいた新入部員は歯科大学とは思えないハードな練習で数ヶ月で4名になりました。だってみんな骨膜炎になりながらも半泣きで走っていましたから、、、残った4名はとても個性的な4名でした。現在一人は小倉で著名なインプラントのM先生、大分で頑張るH先生、熊本で講習会に積極的なM先生。4名とも全くベクトルが違う個性的な同級生でしたがいまでも仲が良く年に1回は集まっては近況の報告をし合っています。

私自身の矯正体験

私自身、矯正治療を経験しています。4年生の頃にラグビー部の先輩であり同大学の矯正科に在籍されていたK先生に矯正治療をお願いしました。親知らずと小臼歯を入れて合計8本の抜歯をしての治療でした。しかし、当時の矯正治療は金属のギラギラしたブラケットに硬いステンレスワイヤーでの治療でした。

当院が舌側矯正をメインで行う理由

正直なところ心の中では「最悪」と叫んでいました。20代前半の多感な時期になぜ自分は食事もままならず&笑えない金属のブラケットを付けているんだと自問自答していました。もちろん医局でも技術力が高いと評判の先生ですし、ラグビー部の先輩でもあったので信頼出来たのですが、マルチブラケット装置(セラミック)を懇願したのですがK先生からはあんなの良くない!!治らない!!治療期間が延びる!!!などと言われ金属になってしまいました。その時に思ったんです、なんで綺麗な歯並びになるためにこんな笑えない姿になるのか、、、、これが現在において舌側矯正をメインで行なっているキッカケになっているわけです。

卒業から専攻科選択

卒業を前に将来どの方向で歯科医療にたずさわって行くか考えなければなりませんでした。当時口腔外科または矯正歯科どちらかに入局しようと思い悩んでいました。当時口腔外科の本田助教授はラグビー部の顧問&監督でとてもお世話になっていたこともあり、また兄も在籍していました。しかし個人的には矯正治療経験者ということと矯正治療にとても興味をもっていました。歯科と言いましても専門分野は知識も技術も大きく異なり一生を左右する重大な決断をしなければなりません。同業者であり良き相談相手である兄に意見を聞いたところ、お前は矯正科を専攻しなさい、兄弟二人同じ口腔外科を専攻しても意味が無い。その一言で吹っ切れた気持ちで矯正学講座を専攻することになりました。

矯正治療を専門に行う歯科医師

入局(専攻生)にあたって卒業と同時に大学院(4年間)を志望するかどうか教授から面談がありました。入局希望者の多くは大学院入学を希望していました。まあ私もそうだったのですが様々な理由によりこの年は入学できませんでした。また医局に在籍する場合、通常最低5年は在籍しなければなりませんでした。なぜならば日本矯正歯科学会の認定医の受験資格が学会会員5年以上+〇〇症例以上+学会誌に論文発表だったからです。将来は矯正歯科治療を専門に行う歯科医師としてやって行こうと考えていた私は、まずは臨床の基本から学ぶべきと考えをかえました。

がむしゃらに学んだ日々

当時の矯正科は臨床において自由に勉強出来た時代でした。1年目に配当された患者さんは特に鮮明に覚えています。当時新入医局員8名に対し約30数名の患者さんを配当されてました。どの診療科でもそうでしょうが国家試験をパスした知識(技術はありませんので)では到底高レベルの治療が出来ないという事を実感したものです。一般的に矯正治療には多くの治療術式があります。大きく分けるとベッグ法やエッジワイズ法です。現在日本においてはエッジワイズ法が多くを占めています。この上記2通りの基本テクニックを軸とし多様に派生したテクニックが存在します。そんなことは学生では習いませんので講師の先生や助手の先生に指導して頂きながらがむしゃらに学びました。

矯正治療の基本と奥深さを学ぶ

何事も”基本忘るべからず”と言いますが私達はエッジワイズ法の基本であるスタンダードエッジワイズから勉強を始めました。日々タイポドントという練習用歯牙移動モデルを用いて10回以上、いや20回近く練習した記憶があります。何事も基本が大事なんだということをいま改めて思います。もちろんその他にも勉強する事は山のようにあります。矯正の歴史、治療見学&アシスト、講師や助手の先生方の指導のもとに配当された患者さんの基本的な資料採得&作成、診断、治療方針立案を作製し、検討会を得て治療を開始するわけです。毎日午前1時とかに帰るのが当たり前で1年が飛び去るように過ぎて行きました。 また大学病院の休日や夜間には矯正専門で開業されていたY先生には臨床における実践的な矯正治療を学び、将来目指す矯正歯科治療を専門に行う歯科医師としての考え方の基本を教えて頂きました。Y先生には心から感謝しています。当時Y先生の影響もあり将来の目標は東京で開業されている与五沢文夫先生の講習会を受講し、その後入会審査をパスし与五沢研究会のメンバーになる事が目標でした。矯正治療は歯を動かす動的治療期間が2〜3年、保定期間として予後が安定するかどうかそれから2〜3年の月日が必要になります。小児矯正からのおつきあいですと10年以上なんて言うこともあります。医局に残り2年が経ち矯正治療の基本を学ぶと共にその奥の深さを知りました。

研鑽には終わりがないことを痛感

もちろん研鑽に終わりは無いのですが上記のように5年やそこらでは矯正歯科治療を専門に行う歯科医師としてはまだまだ足りないという事がわかったのです。歯科医になって初めて専門分野の奥の深さを感じた時期でもあります。6年間勉強し国家試験に合格する知識を身につけても、それはごくごく浅い一般的歯科知識でしかない事を痛感した事を鮮明に覚えています。ただ恵まれていたのは私達が入局した1990年時代の医局はとても勉強ができる環境でいろいろな技術を同時に勉強出来る時期でもありました。夏休みの時期にはアメリカからDR.LOOS先生がタイポドントの講習を大学まで毎年来て頂いて教えて頂きましたね。とても良い経験と勉強をさせて頂きました。これは医局に7〜8年はいなきゃ駄目だなと、、、それとそう思うに至った理由がもう一つあるのです。それはやはり大学院入学でした。

大学院時代

研究を臨床に還元

専攻生時代には大学院の先生の実験の手伝いをしていました。手伝った研究内容は歯牙移動に無くてはならない歯根膜の血管網の変化を見る実験でした。その変化を見る事は一般矯正臨床から見る側面とは真逆というか顕微鏡の世界でその反応を確認出来るわけです。また矯正治療に欠かせない歯根膜繊維周辺の研究でしたのでなおさらです。これこそ大学などの研究機関でなければ見ることができないわけです。臨床ではなにか見えてきた!そんな感触と自信が出来てきた頃。お手伝いをさせて頂いていた研究は臨床に通ずる基礎的研究であり将来必ず臨床に還元出来る研究が出来るのではないかとおもい、入局3年目にして大学院に進学する事を決意しました。運命というかご縁というか大学院の指導をして頂いたのは矯正科の助教授は私の母校である九州学院高等学校の先輩である伊東先生でした。この先生には特にお世話になりました。物事の考え方、患者さんとの接し方、研究に取り組む姿勢などなどなど、、、、個人的には最初とても厳しく本当に高校の先輩か?と思う程でしたが、現在改めてその優しさを理解出来ました。

苦労の末に大学院での研究発表を終える

研究課題は上記略歴にも記載しておりますが再植歯の整復・固定後の修復過程および歯の移動に対するb-FGFの影響に関する病理組織学的研究でした。まあ論文表題で書くとこのようになるわけです。わかりやすく言うと再植した歯は歯根膜が断裂されるため通常骨性癒着(アンキローシス)を起こすわけですが、その治癒過程を通常の抜歯歯牙の再植と抜歯歯牙にb-FGF(繊維芽細胞増殖因子)を歯根に塗布して再植し、その治癒機転を観察すると共にその後に矯正力を加えて変化を比較するという研究です。当時のb-FGFは研究段階の試薬でしたのでとても高額だという事を聞いた事があります。1996年春には苦労の末に大学院の研究発表を終え、学位論文を無事書き終えることができました。研究に協力して頂いた先生方に感謝。

舌側矯正治療との出会い

治療結果のクオリティの高さに驚く

私が最初に舌側矯正治療に出会ったのが1995年、日本矯正歯科学会の認定医を取得した年でした。私の記憶が正しいならば最初に目にしたのはORMCO社からの講習会の案内で、現在も世界の舌側矯正をリードされている竹元京人先生の講習会でした。当時は舌側矯正治療で治るの?という先入観と、こんな治療技術があるんだという期待とが交錯していました。期待を持って受講した講習会は千葉の竹元矯正歯科のオフィスで行なわれました。その講習会を受けた時、その治療結果を見てクオリティの高さに驚き、これは矯正専門医として生きて行くためには舌側矯正治療技術を習得しなければならないという事を痛切に感じたことを昨日の事のように覚えています。またその診療所の開放感と洗練された空間に圧倒された事を今でも鮮明に覚えています。

舌側矯正治療をスタート

その後、早速医局に戻って舌側矯正治療の復習と経験を積むために様々な文献や出版物を見て実践をしなければ始まらないわけですが当時医局の後輩で私に矯正治療を希望したA先生が喜んで協力してくれるという事でしたので早速治療を開始しました。何故か当時の福岡歯科大学矯正科には舌側矯正装置を作成するT.A.R.G.という機械が有りそれを利用し、文献を見ながら作成し治療を行いました。唇側矯正(表側からの治療)とは動きが違う、ワイヤーが違うetc,,,違う事だらけで大きな壁が幾つもありA先生にはとても苦労をかけたにも関わらず嫌な顔一つせず私を信頼して頂き協力して頂きました。無事に治療を終え、治療結果を振り返ってみると唇側矯正治療とは異なる特徴が有る事を改めて確認しました。講習会を受講した時に唇側矯正治療よりもアンカレッジが強いので前歯が後退しやすいことなどまさに見て聞いた事が治療結果のデーターに現れていたのです。正直驚きとこれからの矯正治療においてとても期待が持てるデーターでした。それと共に1998年の大学病院在籍まで舌側矯正治療をさせて頂いた事が現在の私の矯正治療に大きな影響を与えている事は言うまでもありません。

しもだ矯正歯科クリニック開業

1998年3月で大学病院を退局し同年8月に福岡県福岡市天神に歯列矯正を専門に行う歯科医院としてしもだ矯正歯科クリニックを開院。誰にも気づかれない、舌側矯正治療をメインに患者さんにとって矯正治療のストレスを軽減するとともに、診療室は快適に治療して頂けるシステムと空間を提供出来るように工夫をしております。

しもだ矯正歯科クリニック開業

常により新しい技術をこの福岡でご提供したい

私はいつもスタッフに伝えています。私達は歯科医療の中でも特に専門的知識と技術が必要な歯列矯正専門のチームである、だからこそ常に努力を怠らず研鑽を積むことが必要です。停滞は後退を意味します。常により新しい技術をこの福岡で提供する、そしてこの福岡の人たちを美しい笑顔でいっぱいにしましょうと!!矯正治療は私ひとりでは理想の治療はできません。矯正治療を経験、理解している受付、矯正歯科治療を専門に行う歯科衛生士、歯科技工士、そして私達矯正専門医が一つになってこそ素晴らしい治療を提供出来るものと考えております。あともう一つ矯正治療を成功させる上で重要なことがあります。それは患者様の協力です。患者様の協力とご理解なくしては矯正治療の成功は有りません。是非私達と共に素晴らしいスマイルを実現しましょう。そして自信を持って世界中の人とコミュニケーションを図りましょう。

医療法人 矯人会 
しもだ矯正歯科クリニック
院長 下田哲也